諏訪大社✖️武田信玄
武運長久の加護に感謝し、信玄が篤い信仰を寄せた日本最古の神社
長野県諏訪市
御朱印あり
御祭神
[住所]
- 建御名方神(たけみなかたのかみ)
- 八坂刀売神(やさかとめのかみ)
(上社本宮) 長野県諏訪市中洲宮山1
(下社秋宮) 長野県諏訪郡下諏訪町5828
[交通]
(上社本宮) 中央自動車道[諏訪IC]より車で約5分
(下社秋宮) 中央自動車道(岡谷IC)より車で約12分
深い縁で結ばれていた武田信玄と諏訪大社
永禄11年(1568)、武田信玄は駿河に向けて1万2千の軍を率いて出兵した。
「海道一の弓取り」との異名を持っていた今川義元が桶狭間の戦いで死去すると、今川領であった駿河の統治は揺れに揺れていたからだ。
信玄は相模の北条氏康に今川領の分割を提案していたが、かねてより今川氏と親交のあった北条氏はこれを拒否。
信玄は徳川家康と組み、今川氏真と対峙した。
信玄は今川家臣団に対する離間の計略を成功させ、今川家臣団から21人もの武将が離脱。
これをうけて今川軍は戦わずして撤退を余儀なくされた。
しかし、このとき氏真の正室であり、北条氏康の娘であった早川殿は徒歩で退却せざるを得ないひっ迫した状況に置かれ、これに氏康は激怒。
武田氏と結んでいた甲相同盟を破棄し、対立姿勢を強めていった。
北条軍は今川軍の要請を受け、すぐに援軍を派遣。
屈強な北条軍を前に、武田軍は興津などで敗戦。
さらに、手を結んでいた家康が武田との関係を手切りにして撤退した。
その際、家康は武田軍の撤退中に駿府を占領し、掛川城に籠城していた氏真を無血開城させた。
これは、徳川氏と北条氏が内通していたからで、両氏はすぐに同盟を締結。
武田軍は勝利を目前にして、家康の裏切りによって駿河奪取に失敗することになる。
駿河攻略は、信玄が悲願の上洛を果たすために重要な使命であった。
そのため強力な北条軍を敵に回しても必勝を期さねばならなかったのだ。
永禄12年(1569)には、第二次、第三次と二度にわたって駿河に侵攻。
北条軍と激戦を交わしながらも翌永禄13年(1570)に駿河を支配下に置くことに成功したのだった。
東国の情勢を大きく変えたことで戦国時代に多大な影響を及ぼした信玄の駿河侵攻だが、この結果により信玄は上杉、織田、徳川という勢力に取り囲まれることとなり、その後は苦境に立たされることになった。
いわば歴史を変えたひとつの転換点であった。
そんな重要な一戦を前に、信玄が戦勝を祈願した神社こそ諏訪大社・上社である。
第三次駿河侵攻に出撃する直前となった1569年11月9日。
信玄は起請文を捧げて、見事に駿河奪取に成功したのだった。
諏訪大社は、諏訪盆地に上社と下社が設けられ、二社四宮の境内が鎮座する。
鎮座の年代、起源等については諸説あるが、日本最古の神社のひとつだとされている。
平安時代末期に編さんされた『梁塵秘抄』という歌集の中で「関より東の軍神、鹿島、香取、諏訪の宮」とうたわれているように、古くから軍神として崇敬を集めた。
古来から人々の篤い信仰を集めてきた諏訪大社に対しては、信玄も重視してたびたび寄進を行なっている。
その証拠に、信玄のトレードマークともなっている兜は「諏訪法性兜」と呼ばれ、諏訪大明神の加護を受けたとされるものだ。
そればかりか戦いに用いた軍旗には『南無諏方南宮法性上下大明神』と記されてもいた。
また、あくまで伝承ではあるが、信玄は「自分が死んだときは遺骸を諏訪湖に沈めてほしい」とも語られている。
それほど、信玄の諏訪大社に向けられる信仰は篤かったといえるだろう。
諏訪大社には、信玄が送った願文も多数残されており、その加護と武運長久に対する感謝の念がとうとうと綴られている。
信玄がこれほどまでに諏訪大社を崇めたのは、家臣団の団結を高めるためだったともされている。
ただ、諏訪地方の周辺を治めていた諏訪氏と武田氏は長い間対立し、最終的に武田氏が治めるようになった。
その際、諏訪家の娘(諏訪御料人)は信玄の側室となり、のちのち武田勝頼を産んでいる。
史料が少ないために信玄と諏訪の関係がいかなるものだったのか定かになってはいないが、深い縁で結ばれていたことは間違いない。
信玄が諏訪大社を神聖視するのも当然といえるかもしれない。