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真実のことわざ

ことわざ[犬も歩けば棒に当たるの本当の使い方]

ことわざ[犬も歩けば棒に当たる]の本当の使い方を解説していきます。

​読み
[いぬもあるけばぼうにあたる]
​意味
[出しゃばって行動すると思わぬ災難に遭遇するおそれがあること。]
では、ここから本当の使い方や真実を知っていきましょう。

ほとんどの日本人が知っていると言ってもいいほど有名なことわざだが、一読しただけではあまり意味がつかみにくく、正確に意味を説明できる人は少ないです。

そもそも。「棒に当たる」とはどういうこと?

実はこの棒は「おしおきのための棒」のことです。
しかし、「当たる」という言葉から、この棒がおしおきののための道具であることに気づかず、道端に立ってる電柱が何かを想像する人が多い。

「棒に当たる」は何かに偶然ぶつかるという意味ではなく、「人に棒で殴られる」ということを表している。

したがって、このことわざの本当の意味は、犬が外をうろついき歩いているとそれだけで人から棒で叩かれるおそれがある、つまり出しゃばって行動すると思わぬ災難に遭遇することがあるから気をつけるべきであるというものなのだ。

ところが、時代が流れるにつれてこのことわざにはもうひとつの意味が付与されるようになっていった。
棒に「当たる」という言葉が、何か思いがけなず良いものに行き当たるということを彷彿させることから、「とりあえずなにか積極的にしてみることで、思いがけない幸運に出会うかもしれない」というまったく違う別の新しい意味が生まれたのである。

現代の人の多くがこちらの意味を正しいものとして使っていますが、実は本当の意味があって、この使い方は間違っていたのです。
よくよく考えてみれば、なぜ「棒」が幸運を意味するのかについてはうまく説明できないのである。

ことわざの本当の意味[血で血を洗う]

ことわざの本当の意味[血で血を洗う]
読み【ちでちをあらう】
意味【殺戮に対して殺戮で応じれば、果てしない殺し合いになること。】
今日は、ことわざの真実についてです。

意味を知っていればちょっとお得する内容になっていますので、ぜひ最後まで読んでください!
では、いきます。

もともとは、『旧唐書・源休伝』にある「(ウイグル王が言ったところによれば)お前の国ではすでに突董らを殺した。
もしお前を殺せば、血を持ってただ洗うかのようにますます汚れてしまう」という一説に基づき、暴力に対して暴力を使ったり、悪事に対して悪事で仇討ちしたりするなどして、ますます状況が悪化することを指していた。
しかし、後になって血を「血縁者」として捉えるようになり、「骨肉の争い」と同様に「血のつながっているもの同士の争い事」という意味で使われるようにもなっている。

使用例としては、「暴力団が血で血を洗う抗争を繰り返している」や「父親の遺産をめぐって子供達が血で血を洗うひどい争いを始めた」など、対立し合うもの同士の激しい戦いを表現する際に用いられるが、なかなか普段使える言葉ではない。

血で血を洗うと同様に血を使ったことわざに「血祭りにあげる」というものがある。
これは、古代中国で戦いの前に捕らえていたスパイや捕虜などの敵の一人を殺して生贄の血を神に供えて祀る「血祭」に由来しており、そもそもは「戦いの手始めに敵を殺して気勢をあげる」や敵を容赦なく叩きのめして味方の士気を奮い立たせる」という意味の言葉だった。
しかし、昭和に入ってからは「相手をボコボコにすること」を「血祭りにあげる」というようになった。
性格に言えば、この使い方は誤りであるが、近年では当然のことながら「戦いの手始めに敵を殺して気勢をあげる」なんてシチュエーションは現在に起こりえないため、喧嘩(口喧嘩も含む)で「相手をボコボコにすること」が一般的な「血祭りにあげる」の意味となっているのである。

どうだったでしょうか?
かなり血なまぐさい意味ですよね?
私は血で血を洗う抗争には絶対巻き込まれたくないと思いましたね^^;

これからもいっぱい書いていくので、よろしくです。
みなさんの知識にちょっとでも役に立てたらと思います。
ではまた!

ことわざの真実 [疑心暗鬼]

疑心暗鬼
読み[ぎしんあんき]
意味[疑う心が強まると、なんでもないことまで疑わしく思えること]

現代社会には、政治不信の嵐が吹き荒れている。
「汚職が疑わしい!」とマスコミが追及すれば、実は怪しいのは反対側の勢力だったり、不倫疑惑で騒ぎ始めたと思ったら、両陣営から該当者が現れたり。
もはや誰を信じていいのか分からない状態だ。

これが、まさに「疑心暗鬼」の状態なのだ。
この「疑心」とは、仏語の「六根本煩悩」の一つで、仏教の真理に疑いの心を持つこと、「暗鬼」は、暗闇の中に鬼を見るという意味である。
づまり疑心暗鬼は、暗闇というだけで疑わしく、鬼がいるかのように見えるのである。
そもそも、この四字熟語は、古代中国の南宋代に成立した『列子』説符篇に記された逸話に由来している。

あるきこりが、自慢の斧を無くしてしまう。
彼は、ふと、隣の家の子供が、小野を欲しがっていたことを思い出した。
子供を疑い始めたきこりが近づいていくと、偶然にも、その子は、急用を思い出したと走り去ってしまった。
こうなってくると、全てが疑わしく思え、なんとか白状させてやりたいと思えてくる。
その時、きこりは思い出した。
あのは、自分が谷底に置き忘れていたのである。
それ以来、きこりは、子供が何をやっても、怪しいと思うことはなかった。
疑心暗鬼の闇が晴れたわけである。
この時の心情を物語った「疑心暗鬼を生ず」が略され、四字熟語「疑心暗鬼」となったのだ。

人間は、一度、疑心暗鬼になって疑いだすと、負の感情だけが大きく成長し、誰に対してでも、何に対してでも怪しいと感じるようになってしまう。
疑心暗鬼こそ、他者への不信が当たり前になった現在の日本の日常を的確に言い表す、怖い言葉ではないだろうか。
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